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◎琉球筝曲の照屋勝子師匠の40周年記念コンサート(1ページから、2、6ページへ)

沖縄出身で、ハワイ・カリフォルニアで40年にわたって沖縄に伝わる筝(こと)演奏法を教えてきた照屋勝子(てるや・かつこ)師匠が、10月26日午後1時からレドンド・ビーチ・パフォーミング・アーツ・センターで、沖縄から人間国宝を迎えて、記念コンサートを催す。

「筝虹(くとうーぬーじ)」と銘打ったコンサートは、沖縄とハワイ・カリフォルニアをつなぐ架け橋を意味し、虹の七色は、アメリカで沖縄筝曲を習う人種の多様性を象徴している。

照屋師匠は、沖縄・那覇で生まれ、伊是名(いぜな)島で育った。伊是名島は、那覇から当時は2時間の船旅(現在は1時間)。照屋師匠の母方の祖父は、中国から来た商人で、琉球王朝に仕えたのち、伊是名島に住みついた。沖縄は民謡が生活の中にあふれていることで知られているが、照屋師匠の場合は、祖父の三線(さんしん=三味線のこと)で古典と呼ばれる王朝音楽を聞いて育った。

照屋師匠の子供時代は戦争の時代で、筝を習うことができたのは、1957年に高校を卒業して那覇市内の銀行に就職したときだった。筝を習うように勧めたのは母で、戦争のため、自分では筝を習うことができなかった母が、娘に夢を託したのだった。

照屋師匠の家族は7人兄弟で、父が招集を受け、満州に送られいた。そのため、母親が必死になって働いている姿を見て、照屋師匠は育った。この体験から、母を喜ばせたいという気持で、筝の練習に励んだ。筝の先生は、琉球筝曲の中心団体・興陽会の家元・幸地なえだった。

照屋師匠は、那覇で、沖縄民謡を歌うハワイから来た沖縄二世の実業家と出会い、結婚、1961年にホノルルに渡った。ハワイに渡った後も、筝の勉強を続け、1965年に興陽会から教師免状を受け、1968年から、ホノルルで沖縄筝曲を教え始めた。そして1968年には興陽会では最上位になる師範免状を受けた。

生徒が増えたため、1975年に照屋勝子琉球筝曲研究会(現在はハワイ支部)<英語名は照屋勝子沖縄琴ミュージック・スクール>が設立された。照屋師匠は、1980年から1986年まで、興陽会ハワイ支部長も務めた。

1989年には、首都ワシントンのスミソニアン博物館から琉球筝曲演奏者としての認定を受けている。1994年と1997年には、ハワイ州文化芸術財団から研修生2名分の奨学金を交付されている。

ハワイで娘2人を育てているが、その後、離婚、1998年に娘と暮らすためロサンゼルスに移住した。その後、元米軍食品検査官の退役軍人、沖縄二世のアラカラ・ヒデオさんと再婚し、ガーデナに家庭をもち、ここに、照屋勝子琉球筝曲研究会ロサンゼルス支部を開設した。弟子は、近隣の南カリフォルニア周辺からだけではなく、遠くサンフランシスコ、ニューメキシコ州、テキサス州からも来ている。

2001年にはゲティー・センターで催された「沖縄音楽の午後」プログラムに、照屋師匠は、ロサンゼルス在住の民謡・舞踊の師匠たちといっしょに出演した。2006年には、フレスノにあるカリフォルニア伝統芸能同盟から研修生奨学金を受けている。

2004年からは興陽会ロサンゼルス支部長を務め、2007年1月から北米沖縄県人会の芸能部長を引き受けている。

ホノルルで琉球筝曲を教え始めた1968年から40年たち、今では弟子の数は、数百人に達している。10月の「筝虹コンサート」は、照屋師匠の琉球筝曲の普及努力を称える記念行事となる。

1702年、薩摩から伝わった琉球筝

現在、日本で使われている筝の起源は、中国からもたらされたもので、奈良時代にまでさかのぼることができる。筝曲に大きな変化をもたらしたのは、九州・筑紫(現在は佐賀県南里)の正定寺の僧・賢順(1547-1636)で、「筑紫筝」(つくしごと)と呼ばれ京の都でも愛好されるようになった。筑紫筝は、雅楽の旋律を基本にしていたが、江戸の音楽家、八橋検校(1614-1685)によって大きく改良されて現在の筝曲の元ができあがった。

沖縄に筝がもたらされたのは1702年のことで、琉球王朝から覇権された稲嶺盛淳が、薩摩から八橋流の奏法による10曲を持ち帰った。沖縄では、筝は単独では演奏されることはなく、三線や歌の伴奏に使われていた。また、20世紀はじめまでは、筝の演奏家は男に限られていた。女性の筝演奏家20人が集まって興陽会が設立されたのは、1935年だった。

10月26日の「筝虹」コンサートは、ハワイ、カリフォルニア、ニューメキシコ、テキサスから集まる65台の筝による琉球筝曲の演奏が行なわれる。これは、琉球筝曲では、これまで北米で行なわれた最大数の筝演奏になる。

このほかの主な出演者は、人間国宝の三線奏者、照喜名朝一師匠、宮城流舞踊の家元宮城能ぞうニ代目、興陽会の赤嶺弘子会長、ハワイの中曽根ダンス・アカデミー・ホウゲイ会の中曽根リンよしこ家元、安富祖流げんせい会の村田サンダー家元、ハワイじんぷ会USAダンスの中曽根よしえ師匠など。

このほか、地元ロサンゼルスの沖縄舞踊団体の参加で、沖縄民謡、古典と呼ばれる宮廷舞踊
が披露される。

「筝虹」コンサートは、「琉球筝曲興陽会―照屋勝子筝曲研究会」の主催で、興陽会(沖縄本部、ロサンゼルス支部、ワシントン州支部)と北米沖縄県人会が後援している。チケットは25ドル。

◎加賀象嵌(ぞうがん)作家・中川衛(なかがわ・まもる)氏がパサデナで講演(1ページから4、5、7ページへ)

金沢発:金工品の表面に金や銀などの金属を埋め込む装飾を象嵌(ぞうがん)という。加賀象嵌は、その象嵌技法の中でも、高度な技能をようする伝統工芸で、約400年の歴史を持っている。

この加賀象嵌の第一人者で、人間国宝の中川衛氏(61歳)が文化庁の派遣事業で、9月にニューヨーク、ワシントンDCを回り、10月にはパサデナを訪れる。ニューヨークではジャパン・ソサエティー、ワシントンDCでは、コーコラン美術大学で講演する。

パサデナの講演会は、パシフィック・アジア美術館で10月11日午後1時から4時まで。このほか、ロサンゼルス地区ではアートセンター・カレッジ、オーティス美術大学、南カリフォルニア建築大学で講演する。

中川氏の家系は、先祖代々から金沢で生活しており、中川氏自身も、一時、関西で仕事をしたこともあったが、生涯をこの金沢で過ごしている。しかし、加賀象嵌との出会いは、中川氏にとっては
思ってもみない、ことだった。

地元、金沢美術工芸大学を卒業した中川氏は、電化製品デザイナーとして松下電器に就職、3年間を大阪で過ごした。27歳のとき、両親の世話をするために金沢に戻り、石川県立工業試験場伝統工芸品作り指導の仕事に就く。そして石川県立美術館で加賀象嵌を施したアブミ(馬具)の展示を見たことが、人生を大きく変えることになった。

アブミは激しい振動が加わる馬具であるにもかかわらず、精巧な技術で、金属の埋め込みが施されていたのだ。この象嵌技術に魅了された中川氏は、加賀象嵌の最後の技術保持者といわれた高橋介州(たかはし・かいしゅう、当時69歳)氏に弟子入りをした。

5年間の修行の後、中川氏の作品は日本でもっとも権威ある日本伝統工芸展への出展が認められるようになった。また、このころから、金沢美術工芸大学での講義も始めるようになった。大学の講義と加賀象嵌の制作を両立させようとする中川氏の生活は驚くべきものとなった。午後6時に、大学から自宅に戻ると、中川氏はすぐ食事を取り、床につき、午後8時30分まで仮眠した。そして、午前4時までが加賀象嵌の制作時間で、朝7時30分まで仮眠して、大学に通う、という毎日を繰り返した。

家族と過ごす時間もなく、まして子供をかまってやる閑もなく、中川氏は加賀象嵌の制作にうちこんだ。しばしば、仮眠をする時間もなく、夜の制作をすることもあった。しかし、大学での中川氏は、社交的で人付き合いがよく、大学の同僚は、中川氏がこのような生活をしていることにはまったく気が付かなかった。

象嵌作家として認められるようになったのは41歳のときで、作品の象嵌朧(おぼろ)銀花器「鶴鳴き渡る」が第35回日本伝統工芸展(1988年)朝日新聞社賞を受けた。幾何学的デザインと波打つラインの組み合わせが評価を受けた。

第43回日本伝統工芸展(1996年)では、象嵌朧銀花器「八雲立つ」が、日本工芸会奨励賞を受けた。このころから中川氏のデザイは、実際に自分の目でみた風景を元にしたものになり、トルコ、中近東を皮切りに、中川氏は毎年、世界旅行に出かけるようになった。

第50回日本伝統工芸展(2003年)で日本工芸会保持者賞を受けた、重ね象嵌朧銀花器「草原の森」は、ブルガリアの草原イメージを元にした作品で、作品の右側に施された銀が<昼間の輝き>を、そして左側が<夜の暗さ>を表現している。

中川氏の現在の作品の特徴は、時の流れの変化を表現したものと、明暗の対峙を表現したものと、2つのタイプに分けることができる。これまで、誰もなし遂げることができなかった力強い表現力をもつ中川氏は、さらに、今後の活躍が期待される作家である。

(出典:週刊「人間国宝」ヤギハシ・シン記事から)


◎愛媛県新居浜市の太鼓祭り(2ページ)

愛媛県新居浜市では、毎年10月16日から18日には、壮大な太鼓祭りが行われ、人口13万の新居浜市の人口がちょうど、倍の数に膨れ上がる。太鼓台は、一台の重さが約2トンもあり、百人以上の担ぎ手で運ばれる。総勢約30台の太鼓台が新居浜市内を練り歩き、山根グラウンドでは太鼓台を空中に舞い上げる時間を競う「かきくらべ」が行なわれる。

(新居浜市のホームページから)
太鼓台の起こりがいつであるかはっきり答えられる資料は、現在のところ確認されておりません。地域の伝承によると、祭礼の時、神輿に供奉する山車の一種で信仰を対象にした神輿渡御の際、その列に参加して厳かに供奉し、豊年の秋を感謝して氏神に奉納していたもので、その起源は平安時代、あるいは鎌倉時代まで遡るといわれています。

太鼓台が記録の上で出てくるのは、江戸時代後期、文政年間(1818~1830)のことで、その頃は「神輿太鼓」と書かれることが多かったのですが、時代を経るにつれて「太鼓台」あるいは「太鼓」とされることが多くなってきました。

太鼓台の全国的な分布を見ると、瀬戸内海沿岸の港町、漁師町、あるいは大きな川の輸送拠点に多く見られます。これは、瀬戸内海の海上交通が古くから盛んで、物資の流通、文化の交流が活発に行われたことによるものと考えられています。

幕末から明治時代初期の太鼓台は、現在の子供太鼓台くらいの大きさしかなく、飾り幕は薄めで天幕も現在のような膨らみを持ちませんでした。しかし、別子銅山の開坑により産業が発展し、地域経済が発達するにつれて太鼓台を所有する複数地域の対抗意識も強まり、明治中期以降から急速に巨大化し、明治時代中期から昭和時代初期の太鼓台は、現在の太鼓台と同じくらいの大きさになり、飾り幕は縫いの発達とともに豪華に、また天幕も膨らみを持ったものを付けるようになりました。

しかし、太鼓台の飾りが豪華になり、大きさも巨大化するということは、その建設費用や、また巨大な太鼓台を担ぐためのかき夫のパワーが多く必要になります。新居浜太鼓台がこれらの問題を克服し、数多くの改良を重ねて現在に至っていることは、太鼓台が地域の「財力」と「腕力」の二方向から発展したといえるようです。

現在では、瀬戸内沿岸にある数多い太鼓台のなかでも、150人余りの男衆で差し上げられ、澄んだ秋空に舞う新居浜太鼓台の姿は、その豪華絢爛さ、勇壮華麗なことから『男祭り』の異名をもち、毎年約30万人の観衆を酔わせて止まない魅力ある祭りとして、全国的にも知られるようになりました。

(写真提供は、田尾フォトサービスの田尾忠士さん)
記事は、新居浜市在住のバーバラー伊藤さんが貢献している。

◎カリフォルニア州立大学ロングビーチ校日本庭園で恒例の菊祭り(3ページ)

アール・バーン・ミラー日本庭園では、10月25日、26日の2日間、恒例の菊(クリサンソモン)祭りが行なわれる。今年の菊祭りの、花の飾りつけは、明治・大正時代の写真や、明治時代の日本の菊飾りに影響を与えたといわれているビクトリア王朝時代の写真をもとに行なわれる。

菊の即売も行なわれる。オレンジ・カウンティー・クリサンソモン協会が協力している。入場料は大人7ドル、高齢者6ドル、日本庭園会員は5ドル、12歳以下は無料。

◎月光をテーマに、弓道、舞踏、ブルースで静寂を表現(3ページ)

リトル東京の日米文化会館では、ロサンゼルス全域で行なわれるワールド・フェスティバル・オブ・セークレッド・ミュージックの一環として、「マレ・セレニタティス」と題して、月光の静寂をテーマにしたパファーマンスを9月19日午後8時から、アラタニ日米劇場で行なう。

日米文化会館の芸術監督を務める小阪博一さんの企画で、小阪さん自身が行なう弓道のパーファーマンスで幕を開ける。日本の笛の音楽とブルース・ハーモニカの音楽に合わせて舞踏が行われたり、実際の僧による声明、アメリカ人のダンス団や、日本の雅楽、沖縄舞踊などが劇場内と劇場前に広場を使って繰り広げられる。入場券は一般が25ドル。

◎山田洋次監督の映画「武士の一分」ロサンゼルスで上映(3ページ)

2002年、時代小説の大家・藤沢周平作品を山田洋二監督が映画化して2002年に「たそがれ清兵衛」、2004年には「隠し剣 鬼の爪」が公開されているが、三部作最後となる時代劇映画「武士の一分」(2006年作)が9月中に、ロサンゼルスの映画館4カ所で上映される。英語タイトルは「ラブ・アンド・オナー」(愛と名誉)。木村拓哉が主演で、小林稔侍、緒方拳、桃井かおりが出演。写真は、坂東三津五郎。

◎熊本からDOYO組を迎えて童謡コンサート(3ページ)

日本語学園協同システムの創立60周年を記念する童謡コンサートが、10月18日(土)午後2時30分からリトル東京のアラタニ日米劇場で行なわれる。熊本から矢部清子、そが・みまこの2人
で歌う「DOYO組」が中心で、協同システム傘下の5校から合計100人の生徒が歌う。入場料は大人15ドル、12歳以下は10ドル。

◎日本語奨学資金のためのさだ・まさしコンサート(3ページ)

日本語をアメリカで普及しているアメリカ国籍の先生や学生に奨学金を送るためのオーロラ基金の募金コンサートが今年は、10月5日午後6時からエルカミノ大学のマーシー劇場で行なわれ、さだ・まさしが出演する。入場券は、100ドル、75ドル、55ドル。

◎福岡県人会の100周年で英語による福岡関係者の集まり(3ページ)

ロサンゼルスの福岡県人会は100周年を迎え、9月はじめに記念行事を行なうが、その一環で、9月6日午後5時から、全米日系人博物館で英語を話す福岡関係者を対象にした「日系福岡ナイト」を行なう。参加費は30ドル。

◎日本画のプライス・コレクションが再び、展示される(4ページ)

6月22日から9月14日までロサンゼルス・カウンティー美術館(LACMA)で行なわれた江戸中期の日本画を集めたプライス・コレクション展は約5万人の観客を集めて閉会したが、反響が大きかったことから、LACMAの日本美術棟を使って、9月20日から2009年1月4日まで、「プライス・コレクション・アンコール」展が行なわれる。

◎動物画に秘められているシンボリズムをテーマにクラーク・センターで展示会(5ページ)

中部カリフォルニアのハンフォードにある日本美術・文化のためのクラーク・センターでは、9月2日から11月15日まで、秋の展示として、動物の絵をテーマとした日本画の展示を行なっている。亀、孔雀、虎、蛍など、アジアで共通に理解されている動物の持つシンボリズムを、アメリカの鑑賞者に紹介する展示会になっている。

◎ロングビーチで茶道をテーマの美術コレクション展示(5ページ)

ロングビーチにある女性ボランティア団体アシスタンス・リーグの本部ロビーは、ハワード・コレクションという名称の東洋美術の展示場になっている。最近、このハワード・コレクションの展示場の一部を使って、ロングビーチで茶道をしているカミンス・ケックさんが集めた茶道の道具の展示があった。ケックさんによれば、アメリカ人の陶芸作家も、茶碗を作り始め、茶道がアメリカに定着している、という。

◎米国寿司調理師学校がオープした(6ページ)

ハリウッドの映画関係者を顧客に捕まえ、事業を拡大している日本食レストラン経営者の上地勝也(うえち・かつや)さんと、江戸前寿司を初めてロサンゼルスに紹介し、アメリカの寿司ブームの基を作ったといわれている共同貿易社長の金井紀年さんが、共同経営者となり、ロサンゼルスに新しい寿司学校が9月3日オープンした。

上地さんは、新規店舗をオープンする際、経験のある日本食の調理師が不足しているという問題に直面、自ら調理師を養成する学校を開くことを検討していたところ、日本食の普及のために、すでに調理師学校の設備をつくり、講師を探していた金井さんと出会い、意気投合して、共同経営者となることになった。

調理師学校の英語名はスシ・インスツチュート・オブ・アメリカ

◎アンディー松田の寿司学校 (6ページ)

わたしが、アメリカで初めての寿司学校がオープしたときに、講師の仕事を始めたときは、寿司職人を養成する仕事の必要性は、あまり理解されなかった。しかし、最近、共同貿易が寿司職人学校を開いたり、日本政府の貿易促進をする機関のJETROが日本食普及活動をしたり、また、日本で、世界に日本食を普及させるJROという業界団体ができたり、日本食への理解度が高まっている。

◎日本語教師の研修会(7ページ)

南カリフォルニア日本語教師の会(TJSC)は11月2日午前9時から午後4時まで、シャーマン・オークスのノートルダム高校で、秋の研修会を開く。講師は、カリフォルニア州立大学モントレーベイ校のサイトウ・ケイコ博士。
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by culturalnews | 2008-09-30 18:55 | 月別の日本語要約